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日语写作教程 范文
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日语写作教程 范文:日语论文:心的概念が意味しているもの
作者:佚名 文章来源:不详 点击数: 更新时间:2007-9-15           ★★★★
oral8口语学习系列教程

  I.問題

  「こころ」やその構成要素であると思われるような人の内的過程や状態を意味する概念,つまり心的概念を人間行動の原因論的説明に用いることは,人の日常生活において一般的であると同様に,心理学においても古くから一般的であった.そうした心的概念としては「精神」「意志」「意識と無意識」「パーソナリティ」「欲求」「動機づけ」「認知」「記憶」などがある(注1).「こころの科学」という心理学の一般的イメージからいえば,そうした概念を用いてこころを理解し,人間の行動を説明する「科学」(注2)こそが心理学であると考えるのが一般的ですらあるかもしれない.

  しかし,こうした心的概念を用いて行動を説明することの根拠は,実は非常に脆弱である.多くの心的概念は人の内部にあり行動に因果的に先行すると仮定されているが,そうした内的過程の存在は観察された行動や行動の規則性から類推されているに過ぎず,ほとんどの場合客観的に観察された事象,つまり外的なものに還元されてしまう.実際,心理学では心的概念に操作的定義が求められることが多く,それなしには測定や実験といった「科学的」方法が適用できないとされるのだが,操作的定義とは心的概念を観察可能な事象に還元することなのである(注3).

  観察された行動から心的概念を抽象化し,それを行動の原因とみなすことには論理的な根拠はなく,形而上学に陥る危険を伴う.そして,こうした心的概念による行動の説明は同義反復に過ぎず,科学的説明として無意味であることは,著者がこれまで繰り返し指摘してきたことである(注4,5).心的概念を人間行動の科学的説明に用いることは,「霊魂」「神」「運命」といった超越論的な概念から事象を説明することと同様の問題をもつといえよう.

  心的概念のこうした性質に対して徹底的な批判を加え,それが無意味であることを論証し,実証してきた最大の勢力は行動主義である.そして,行動主義の心理学は人の行動を環境からの刺激と生体との相互作用の結果として位置づけ,客観的に観察可能な環境と行動との関係の分析から,心的概念を用いずに人間行動を説明(注6),予測,制御することに成功している.

  もちろん,行動の決定には環境と相互作用する生体も関与するから,内的過程の存在が否定されるわけではない.しかし,そうした内的過程は物理的な実体であり,より厳密な科学的方法によって研究され得るという点で,形而上学的な基盤しかない心的概念とは別のものであるべきだろう.「認知過程」などの概念も本質的には心的概念であり,それが内的な実体とじかに対応すると考えることには根拠がない(注7).

  真に内的であり,環境と相互作用する生体側の要因であるのは神経生理学的な要因だろう.しかしそれにアクセスすることは方法論的にも,能力的にも徐々に心理学者の手を離れる.また,実際の人間行動の説明という目的からいえば,神経生理学的な過程は環境と行動とを媒介する過程に過ぎず,行動の説明力という点で環境刺激そのものには遠く及ばない.人の行動を説明するために内的な神経生理学的過程にこだわることは,うまい料理がなぜできたかという説明として電子レンジの構造をくわしく述べるようなものである.ふつうはどのような材料をどのように準備し,電子レンジをどう操作したかを説明するだろう.

  心理学が,他の学への優位性を保ちながら現在の心理学者の多くが定義するような「人間行動の科学」としての科学性を持つためには,行動の説明に心的概念を使用したり,神経生理学的過程にこだわったりしないで,心理学者が科学的で独自な方法でアクセス可能な環境と行動との関係を行動主義的に分析していくのが最良の道だろう.しかし,こうした考えはいまのところそれほど多くの心理学者に受け入れられてはいない.心理学の出自や歴史から考えて,説明概念としての心的概念の廃止,内的過程との決別と住み慣れた「こころの科学」からの脱却は天動説から地動説への変換に匹敵するパラダイム・シフトであり,まだ相当の紆余曲折と時間を要するだろう.

  いずれにしても心的概念を科学的概念として用いることができないのは明らかなのだが,では,そうした概念を一般の人々や多くの心理学者が古くから使い続けてき,これからも使っていくと考えられるのはなぜなのだろう.これは,心的概念が科学的概念として失格だ,ということとは別の問題であり,かつ心理学的な検討を要する問題でもある.

  心的概念が使われ続けるのは,それがわれわれの生活においてそれなりの意味(あるいは情報価)を持ち,心的概念の使用がなんらかの利益を生んでいるからだと考えることができる.心的概念を用いることで,なにかが捉えられ,伝えられていることは間違いのない事実であろう.そこで,この論文ではそうした「心的概念のほんとうの意味」について考え,それが心理学的な研究や臨床的活動にどのような含意を持つのかを検討してみたい.

  II.心的概念は人の歴史のメタファーである

  自分が心理学者としてでなく日常生活において心的概念を使っている場面(注8)で内省したり,身近な他者が心的概念を用いる態度を観察したりすると,興味深いことに気づく.われわれは心的概念を自分や他者の内部にある(と仮定される)ものを指すために用いてはいるけれども,その「内部」というのは物理的な「体内」というのとは微妙に違う感覚なのである.

  こころはたしかに自分や相手の中にあるが,それは相手の体内の具体的な器官や臓器と対応するわけではないし,脊椎や脳の中の中枢神経系のはたらきに還元されるわけでもない.日常感覚では,こころはそうした物理的実体とは無関係に,人の中に「存在」しているのである.こころが特定の臓器の中で活発に活動しているとか,血管の中を流れたり,神経系を伝わって移動しているところを想像することは難しい.また「自分のこころはどこにあるか」という問に対する答えも,「自分の内部にある」という点以外では大きな個人差を示す.「頭の中」「目の後のあたり」「胸のあたり」など,実に人それぞれである.

  つまり,われわれにとってこころが内的であるというのは,物理的に人の体内にあるというわけではないが,とにかくなんとなくその人の中にあるとしか感じられないという意味で,である.では,こころはどういう意味で人の内部にあるのだろうか.

  1.観察できない環境要因の心的概念への投影 先にも述べたように,人の行動は環境の影響を受けた生体の反応として生じるもので,実際には人の行動の原因のうち相当の部分は過去の環境からの刺激(つまり経験)に帰されるものだし,真に内的な要因として環境と相互作用するのは心的ではなく生理的・物理的な実体である.その点で心的概念による行動の因果論的説明は科学的な根拠をもたない(注9).

  しかし,心的概念による行動説明を行なっているわれわれが,そうした事実にまったく気づいていないわけではない.自分がいまこういう人間であり,こういう行動をしていることには,自分の遺伝的・生理的特質だけでなく,自分が生まれてからこれまでの人生におけるたくさんの経験,周囲の物理的・社会的環境からの無数の刺激が反映されていることを,われわれは漠然と知っている.自分の行動がすべて遺伝によってプログラムされていると考える人はいないだろう.人は誰でもある程度は素朴な環境論者なのである.

  しかし,そうした環境からの影響は,いま自分がしている行動,あるいは目の前の他者がしている行動よりも過去に生じたことである.過去の事象は文字どおり過ぎ去ってしまっており,もはや存在しない.いま現在で存在するのは,過去の環境事象の影響を受けて行動した行為者と,行動そのものだけである.このとき,「過去の環境事象」という行動の先行因の痕跡は目に見えないが,確かに存在するはずだろう.どこに? 行為者の内部に!(注10)

  自分の配偶者が日頃から怠けもので,掃除や洗濯などもあまりしないとする.このとき,こうした行動の原因が家庭環境や親のしつけ,学生時代の生活環境,結婚してからの夫婦の相互作用など,(その瞬間から見て)過去の環境要因によって形成されているとしても,それらの環境要因はすでに過ぎ去ってしまい,観察できない.自分の目に映るのは配偶者自身と,その怠惰な行動だけである.この行動はどこから出てきたのか,彼女からだ.原因は? 急いで彼女の後ろに回ってみても,その原因はどこにも見えない.さしあたり原因は彼女の中にあると考えるしかないだろう.そしてそれは「遺伝的怠惰性」といったことではなく,「怠惰な性格」とか「意欲減退」とか「夫への愛情のなさ」といった心的概念によって説明されることが多いだろう.

  このように,われわれは行動の先行因となっている環境要因の存在は漠然と認識していながら,実際に行動が生じたときには,それに先行する環境要因を同時に観察することができないことがほとんどである.そこで,そうした未知の「過去」を行為者の内部に投影する.そして,多くの場合それは「こころ」にまつわる心的概念のかたちで認識される.

  つまり心的概念は,過去に存在して現在の行動の原因になっているが,現在は観察できない環境事象(行為者の過去の経験)を行為者の内部に投影し,仮説的に実体化したものである.それはいわば,行為者が生まれてからこれまで経験してきた,無数の環境事象という目に見えない「歴史」を,行為者という主体を透かして過去の方向へ眺めていくためのメタファー(隠喩)(注11)なのである.

  また,心的概念が内的であることもやはりメタファーであって,それが意味する歴史がほかでもない行為者自身と不可分であるという意味で内的であるだけである.心的概念が物理的に内的であったり,物理的な内的要因と対応する必要はないし,われわれも必ずしもそう感じてはいない.これが,先に述べたこころの空間的所在のあいまいさの原因であろう.

  心的概念は,過去にその人が経験したであろう歴史が,ある種の映像に変えられてその人というスクリーンに映しだされているようなものである.映像はその人の中にあるように見えるが,実際にはそこに投影されているだけの「かげろう」なのである.

2.メタファーとしての心的概念の価値

  では,こうしたメタファーとしての心的概念には,どのような価値があるのだろうか.第1に,メタファーを用いることで,観察できない過去の環境事象も含めてその人の行動の原因となるもの全体を直感的に俯瞰することができる.「あの人は内向的な性格だ」と述べることには,目には見えないが,その人を過去にとりまいていた環境要因が彼に内向的な行動をさせるように仕向けてきたのかもしれない,あるいはそうした環境要因は現在も持続していて,彼の内向的な行動それぞれの直前に彼に働きかけているかもしれない,という含意が隠されている.

  また,必要であれば共通の言語的文化に属する第3者に,行為者の行動とその原因について伝達することができる.先の例であれば,「うちの女房は怠けものでさあ,困っちゃうよ」といった言語的報告にこめられたメタファー的意味を,伝達された第3者の多くは認識することができるだろう.伝達精度は二人が同じ言語的文化をどれだけ共有しているかや,被伝達者の感受性などに依存するだろう.これが心的概念のコミュニケーション枠としての価値である.

  臨床心理学的な場面で心的概念が多用されるのも,そのコミュニケーション枠としての価値と関連している.クライエントと環境との相互作用が問題行動や悩みにつながってきた歴史が明確になりえない中で,クライエントは自分の問題を心的概念を用いてカウンセラーに語りながら,メタファー的に自分の歴史を伝えていく.カウンセラーはそこにあるメタファーを受け取ると同時に,自分も心的概念を用いてクライエントに語りかけていく中で,クライエントの問題が生みだされた歴史への解釈や解決のヒントをメタファー的に伝えていくのである.

  すぐれた臨床家にはクライエントの心的概念による語りに隠されたメタファーを的確に読み取る能力と同時に,それを解釈し咀嚼した結果を新たなメタファーとして心的概念に託し,伝えていく能力が求められる.彼/彼女らが醸し出すある種の芸術的・文学的センスはこれと結びついているのだろう.同じように心的概念を多用しながらも,それを客観的実在に還元して物理的に扱おうとする「科学的」心理学に彼らの多くが示す嫌悪感は,それらが心的概念のメタファー的豊かさを剥ぎ取ってしまうことからきている.

  3.心的概念と時間的パースペクティブ いっぽう,心的概念を用いない行動主義的な心理学は,心的概念がメタファーによって示していた人の歴史をそのまま歴史として扱おうとする.ある行動が観察されたとき,その行動には必ず環境的な先行物があると考え,時間を遡って実際にそれらを見つけだそうとするのである.心的概念が人の行動をメタファーによって芸術的,文学的に説明するとすれば,行動主義は歴史学的,考古学的に説明しようとする.

  もちろん,過去自体は過ぎ去ってしまっており,タイムマシンが開発されない限りそれ自体にアクセスすることはできない(注12).したがって説明のベースとなるデータが目の前にいる行為者とその行動だけであることは心的概念を用いる場合と変わらない.しかし行動主義者は行動を観察し,行為者を観察することから過去の環境の痕跡を探すとともに,現在行為者をとりまいている環境を観察して,その中からも過去の環境の痕跡を探す.これは考古学者が現在の地下に埋っている遺跡を掘り出して,過去を知ろうとするのと同じである.

  心的概念による説明と行動主義的説明をこのように比較すると,二者が時間的なパースペクティブの点でも大きく異なっていることがわかる.心的概念は,現在観察されている行動やその規則性そのものを抽象化した概念の中に,過去をメタファー的に包含しようとするが,その視点はあくまでも現在を中心としたごく狭い時間的パースペクティブの中にしかない.いっぽう行動主義は,現存しない過去の方向にも視点を広げ,広い時間的パースペクティブを持つようになる.

  もちろん過去の環境事象は現存せず,類推するしかない.心的概念はその類推を内的で形而上学的なものへと投影していくが,行動主義は過去に実在して,その時には客観的に観察可能であったと思われる物質的な事象へと仮説的に還元していく.日常生活におけるわれわれは,現存する痕跡から過去の環境事象を系統的に類推したり,それらを現前しない物理的事象に仮説的に還元したりする科学的想像力をもっていないので,心的概念のメタファーに頼らざるを得ない.しかし,行動主義の思想が心理学者の一部にそうした想像力をを与えるようになったのである.

  しかし,すでに起きてしまった行動の原因を分析する,ということについては双方ともに遡及的な類推(あるいは仮説)であり,究極的にはその結論の正しさを証明する方法がないという点で同じである.この場合に心的概念より行動主義の方が科学的であるとは限らない.むしろすでに生じてしまった行動の原因を類推する情報量という点では行動主義の方が劣っているだろう.

  しかし,行動主義の時間的パースペクティブは逆の方向,つまり未来にも広がっている.過去の環境事象の類推から得られたその行動の先行物についての仮説は,同様の環境事象が与えられれば再び同じ行動が生じるだろう,という仮説を派生するが,われわれはそれを客観的観察によって検証することができる.もし仮説が支持されれば,類推が正しかったという蓋然性は確率論的に向上するだろう.同時に,環境事象からの未来の行動の予測,環境の調整による行動の制御の可能性が高まる.

  いっぽう心的概念のパースペクティブは未来に対しても狭いものである.心的概念のメタファー的意味は過去の歴史を俯瞰的に示しているだけで,それが今後どうなるか,ということへの情報量は小さい.「彼は消極的な性格である」という心的概念による記述は,過去については豊富な意味を暗示するが,彼が今後も消極的であるかどうかは,そこに含まれない未来の環境要因に依存するだろう.もちろん「これまでそうであった」ということから「今後もそうであろう」と予測することはできるが,それがどの範囲で有効なのかは明確にはならない.

  この点で心的概念は未来の行動の予測や,行動変容のための指針や方法を示す,科学的な道具とはならない.予測や制御を科学的に行なうためには,メタファーではなく客観的な過去の分析と,原因の環境事象への還元を行なって,それを未来の環境の分析と調整に用いることが不可欠なのである.

  このように,人間行動の心的概念による説明と行動主義的な説明とでは時間的パースペクティブの幅に大きな違いがあり,とくに未来に向けた予測,制御といった用途には心的概念はあまり力をもたない.心的概念を用いた従来の心理学が具体的な行動の予測や制御にことごとく失敗しているのに対して,行動主義的な心理学がそれをむしろ得意としているのは,心的概念のこうした性質による(注13).

  いっぽうで,心的概念のメタファー的性質を意識的に,あるいは無意識的に理解し,利用している心理臨床家たちが,行動の客観的な予測や制御にほとんど興味を示さないことも,同じ理由からであろう.もっとも,臨床家たちもクライエントの問題行動や悩みの修正,解決という場面では,具体的な環境の調整や環境の意味の調整という行動主義的な作業を,意識的にせよ無意識的にせよ行なっていることが多いと考えられる.

  III.他者の「こころ」のアフォーダンス的性質 先に,心的概念の価値をそのメタファーとしての意味と,ある種のコミュニケーション枠という点から論じた.しかし,とくに対人関係という場面を考えると,心的概念にはもう一つの価値があると思われる.それは,他者が自分に対してもつ意味や自分との関係が,他者の「こころ」を示す心的概念によって整理される,ということである.いいかえれば,自分の生活空間において他者に見出したアフォーダンス(利用可能性)(注14)が心的概念に示されると考えられるのである.

  1.心的概念と関係性

  われわれが他者にどのような心的概念を帰属してその人の行動を説明するかは,他者の実際の行動パターンだけで決まるわけではない.われわれが他者の行動を観察し,それをどのような心的概念を用いて説明するかには,観察が行なわれた状況や観察のしかたが大きく影響するだけでなく,自分とその他者とがこれまでどのような相互作用の歴史を持つか,自分をとりまく人間関係の中でその他者がどういう位置付けを持っているかという,自分と他者との関係性が大きく反映されるのである.その点で,同じ人の同じ行動であっても,誰が観察するかによって,どのような心的概念が用いられ,どのように説明されるかは変化するだろう.

  こうしたことは,とくにパーソナリティ概念のような心的概念において容易に想像できる.ある人が冷静沈着で,人の行動にも常にクールに対応するような態度をとるとともに,他者の失敗や問題点は率直に指摘するとする.この人の性格を周囲の人はどのように考えるだろうか.ある人は,「責任感のある,信頼できる性格」と考えるだろうし,またある人は「独立心があり,能力が高い」と考えるかもしれない.いっぽうで,「自己中心的で,思いやりのない性格」とか「近寄りがたい人」などと考える人もいるだろう.

  このような,観察者の違いによる同じ人に対する心的概念のあてはめ方の違いは,観察者と行為者との関係性の差異によって引き起こされる.たとえば,冷静で率直な行動を示すその人と比較的親密な関係にあり,かつ自分がその人に感情的に依存するような関係性が存在するときには,その行動は「責任感のある,信頼できる性格」という心的概念と結びつくだろうし,その人と情緒的な結びつきはあまりないが,仕事などでその能力や手腕に頼っているような関係なら「独立心があり,能力が高い」ということになろう.いっぽうで,その人と比較的親密な関係にあるが,自分の期待や希望がその人の行動とあまり調和しないような関係ならば「自己中心的で,思いやりのない性格」と感じられるし,そもそも人間関係も薄く,利害関係もないならば「近寄りがたい人」ということになる.

  2.対人関係における「こころ」の意味 このように,他者の行動にどのような心的概念をあてはめて考えるかには,自分とその他者との関係性が大きく影響する.その意味で,ある人がどういう「こころ」を持っているかは,その人本人の持つ固有の特性によってではなく,その人と周囲の人との関係性においてそれぞれの他者がその人にどのような意味を見出しているかによって,さまざまな形をとりうるだろう(注15).

  このとき,他者の「こころ」を心的概念を用いてとらえることにはどういう意味があるのだろうか.それは,自分と相手との関係の中で,自分が相手にどう働きかけることができ,それに対して相手からどういう反応が期待できるか,ということを示す,ということではないか.

  太郎君が「冷酷なこころを持つ人」であるかどうかは,見る人によって異なるだろう.しかし,自分から見て太郎君が「冷酷なこころ」を持つように見えるということは,前にくわしく述べたような意味で自分からは見えない太郎君の歴史のメタファーであると同時に,太郎君との人間関係の中でこれまで自分が冷たく虐げられてきたとか,善意を無にされたという関係性の歴史のメタファーでもある.そして自分は,「冷酷なこころ」を持つ太郎君に対して愛情や親切を期待したり,親密な関係に結びつくような行動をとったりはしないだろう.

  この意味で,他者に対してあてはめられた心的概念,つまり他者のこころは,他者の対人関係的アフォーダンスを示しているといえる(注16).他者のこころがどう見えるかは,その人固有の行動的あるいは内的な特性そのものによってではなく,対人関係の中で自分がその人の諸特性にどのようなアフォーダンスを見出しているかによって決まる.人間という複雑な有機体に潜在するアフォーダンスは無限である.したがって自分以外の人がその人に見出すアフォーダンスは人によって大きく変異するだろうから,その人のこころも異なって見えてくるだろう.そして,その人が自分がその人にどのようなアフォーダンスを見出しているかが,自分から見たその人のこころという心的概念のなかにメタファー的に示されるのである.

  臨床心理学的場面での心的概念の使用も,心的概念のこうしたアフォーダンス的価値と強く結びついている.心的概念が

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